圓乗寺 縁起

山縁起の由緒を尋ぬるに、本朝第61代朱雀天皇の御代、比叡山延暦寺第15世、延昌座主の天慶巳亥二年(939)の創設にして、千如山音教寺と称せり。鎌倉時代足利義政将軍時代、康正長禄の頃は
寺門盛んにして寛政年間、特に叡山の学僧、法鏡(後に圓教院日意上人と号し身延山第12世の法燈を継ぐ)の在職中に、塔中法華院、華光坊、大圓坊を統したりしも、文明巳丑元年、日春上の改宗に依り、叡山の学徒、此の年、桑名妙蓮寺(今の寿量寺)焼き討ちと共に、其の余波当山に及ぼし、七堂伽藍灰燼し、宗徒も一時離散せしも、再び日意上人の努力に依り、文明元年巳丑(1469)日春上人は改宗し、寺号を改めて安住山圓乗寺と定む。之より圓教院日意上人を開基とし、圓乗坊日春上人を第一世として復興し、天正元禄(一五七三)時代、第五世日侃上人は佛殿及び梵鐘鋳造の盛観を呈するに至らしめき。第十世日法上人は庫裡本堂を再建、第十六世日渕上人は地領三十石を得て寺門の維持に当てたり、然るに日輝上人は一時乱費し経営に苦しみしも、第20世日登上人、大いに寺に尽瘁努力せしも、明治24年9月(1891)濃尾大震災にて堂塔全く壊滅したりしも、第24世日捻上人復興し、第25世日綽上人、大正2年(1913)4月法燈を嗣ぐや内外の整備怠らず、本堂、玄関、書院庫裡、番神堂、手洗い屋形、山門鐘楼堂、周囲の石垣等七堂伽藍完備せしむ。
戦前の圓乗寺番神堂
和20年(1945)5月17日、第二次世界大戦の戦災を蒙り来襲米機百機夜中爆弾投下、七堂伽藍全焼全滅目も当てられぬ程となりぬ。されど復興の念、昼夜忘れず、庫裡の再建、番神堂の復旧寺内は仏像仏具の建立に暇無く大いに努力しつつあり。
圓乗寺地図 境内案内
第二次世界大戦の戦災を蒙り、七堂伽藍は全焼し残されたのは山門と鐘楼堂のみであった。檀信徒のご尽力を頂き現在に至る
考 当山の旧天台宗を改宗する由緒等は当山第16世日渕上人の手記等ありしも今は此れ等の宝物も悉く灰燼に帰せしかば悉しくノ振述ぶるに由なく過去帳等の残れる全部を参考してものしければ多少の誤りは有るかも知れぬが大体は此の如し、開基は朝師によりて改宗し当山第一世日春上人は開基日意上人の化に依りて改宗せしものなり。
 一、開基圓教院日意上人 (文安年中)(1444)それぞれ改宗せし沿革は他日亦誌し置かんことを希ふ。 
           当山第二十五世 日綽しるす。
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