山第一世 圓乗院日春上人 字は法春圓乗院と号す、文安二年乙丑圓教院日意上人の譲りを受けて音教寺中興の祖と称せらる。寛正の頃より師の学説に傾き師の如く遂に文明元年巳丑(1469)4月28日壇信徒と共に改宗し寺号を改めて安住山圓乗寺と号す。文明八年丙申寂 
第二世   圓珠院日逞上人
        文明八年(1476)丙申十月入山
        長亨二年(1488)戌申七月退寺
第三世   圓覚院日成上人
        長亨二年(1488)戌申八月入寺
        明応八年(1499)巳未十月退寺
第四世   榮俊院日侃上人

        明応八年(1499)巳未十一月入寺
        大永二年(1522)壬午三月十五日寂 
第五世   恵禅院日誠上人
        大永二年(1522)壬午四月入寺
         天文十五年(1546)丙午四月十日寂 
第六世   源如院日存上人
        天文十五年(1546)丙午五月入寺
        元亀元年(1579)庚午八月十二日寂
第七世   本壽院日道上人
        元亀二年(1571)辛未三月入寺
          文禄三年(1594)甲午退寺 
第八世   本行院日遊上人
        文禄三年(1594)甲午三月入寺
        慶長十九年(1614)甲寅八月十三日寂
第九世   本明院日宣上人
        元和元年(1615)乙卯八月晋山
        寛文三年(1663)葵卯三月十二日寂
第十世   一如院日法上人 
        寛文三年(1663)入寺

        日存上人の高弟にして本堂庫庫裡再建
        後日比津定徳寺及び名古屋大光寺へ転住、
        
了義院開山
        天和元年(1681)辛酉五月寂
第十一世  恵中院日運上人
        延寶二年(1674)甲寅 晋山
        元禄三年(1690)庚午十一月寂 
第十二世  一妙院日経上人
        元禄四年(1691)辛未正月入寺
        享保二年(1717)丁酉退寺
        身延山より永聖跡の祖と成る、
御本尊下付
第十三世  本妙院日涼上人
        亨保二年(1717)六月入寺
        元文二年(1737)丁巳二年四月寂
第十四世  本光院日祇上人
        元文二年(1737)四月入寺
        明和五年(1768)戌子五年六月退寺
第十五世  圓明院日達上人
        明和五年(1768)六月入寺
        文化十四年(1817)丁丑九月二十一日遷化
第十六世  智静院日渕上人
        第十世日法の孫弟子
        文政元年(1818)戌寅五月入寺
        天保三年(1732)壬辰三月関ヶ原円光寺より堂

        宇を移し弘化四年当時境内辰巳方に九ト六里の
        村地をもらい嘉永元年(1848)此処に退院す
第十七世  寂静院日照上人
        嘉永元年(1848)戌申十二月入寺
        嘉永六年(1853)葵丑退院 
第十八世  真珠院日輝上人
        嘉永六年(1853)葵丑入寺
        安政五年(1858)戌午退寺
学成寺に住す。
        博学多才なれども財政経済に恵まれず寺門衰微

        甚だしく方に廃寺せんとする非運に陥りたり、
        然れども十九世真善院日幸上人に依りて此の非
        を免れたり。
第十九世  真善院日幸上人
        了義院日 上人の真弟子山科檀林に教鞭を執る。
        安政五年(1858)戌午入寺
        元治元年(1864)甲子十月退寺 
第二十世  龍登院日光上人
        元治元年(1864)甲子十二月八日入寺
        明治十六年(1883)葵未三月名古屋小川町
法華寺
        へ転住。 
第二十一世 修妙院日真上人
        明治十七年(1884)甲申十二月入寺
        明治二十年(1887)丁亥十月退寺
第二十二世 観妙院日諦上人
        明治二十年(1887)丁亥十月入寺
        明治二十三年(1890)退寺
第二十三世 真性院日研上人
        明治二十三年(1890)庚寅四月入寺
        明治二十九年(1896)丙申退寺
前列中 第25世服部寛龍上人
前列左 第26世服部光有上人
        岐阜今尾常栄寺第二十五世の直弟子にして当山住職
        旬々明治二十四年九月濃尾大震災(1891)に遭い堂塔全滅、最も心に
        残るは七間四面の本堂再建漸く落慶式を挙げんとする時なれば甚だ残念
        なることであった。
        この時檀信徒は皆各此の被害に遭いしも直に其の復興を乞い願い翌二十
        五年七間四面の本堂を復興しぬ。其の努力誠に賞すべし。
第二十四世 紫雲院日捻上人
        明治二十九年(1896)十月七日入寺    
        大正二年(1913)退住
        上人の姓は久田氏、故ありて横井と姓を改む、千音寺 久田忠エ門の次
        男に生れ六ツ師長栄寺濱島日妙上人の直弟子にして中檀林を卒業し入寺
        旬々再興に従事し三十二年六十坪の庫裡及び玄関を建て四十年仏像を建
        立荘厳之努め寺観の見るべきに至れり大正二年尾鷲妙長寺に転住し昭和
        六年(1931)三月十五日泊然として遷化せらる。墓を当山に建つ。
第二十五世 寛龍院日綽上人
        明治十八年二月三日父服部清兵エ、母せい、の間に次男(長男濱次郎、参
        覚三郎、四男清一後とう川)として生る。        
        大正八年二月十二日 住職承認 (1919)
        昭和四十年三月十八日 遷化 (1965)
        大正二年当山法燈を受け嗣ぐ第二十五世之日捻上人の直弟子寺門の整備
        内外相整う時に当たり世界戦争の大戦に遭い七堂伽藍の美観も一夜の夢
        と化し歴代の丹精も水の泡と成りぬ。苦は老いの身と共に重なるのみ日
        月旬々す時も待たず復興の念に燃えて暫くも休むことなし。更に一寺を
        初めから建立するに斉し。
        昭和二十三年 二十五坪の假本堂 壱宇
        昭和二十五年 三十坪の庫裡   壱宇
        昭和二十九年 三十番神宮    壱宇
        昭和二十九年 釈迦多宝如来の本尊仏像並仏具一式
               三十番神木像三十体並妙見大士七面天女等々
        本堂再建昭和三十六年四月落成見込み
        鐘楼堂手洗い水屋形山門等は災をまぬがる。
以上は第二十五世寛龍院日綽上人が存命中に過去帳の巻頭に書き残されたものを写したものなり。
筆書きの原本は平成元年に巻軸表装に直し保管中。
第二十五世服部寛龍上人は昭和四十年乙巳三月十八日遷化せらる。
        世寿八十一歳なり。
第二十七世慈廣院日宣 写す。
 他に
        昭和四年春 鐘楼堂建立 (1929、四十四歳)
        昭和四年春 境内廻り石垣新設 (1919、四十四歳)

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